You'll Always Find Me In The Kitchen At Parties

見るのをながめることはできる。それに対して、聞くのを聞くことはできない。

名詞の固有名詞化について

たとえば、あなたが心の底から最高にすばらしいと思った映画を全力で誉めたたえるときに、なんと言うだろうか。「この映画はたいへん素晴らしい」とか「人生で最高の一本だ」とか「アカデミー賞間違いなし」とか「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」とか言うだろうか。そんな間抜けなことは言わないだろう。映画を褒めたかったら、ただ、「これが映画だ」と言うものだ。写真を褒めるなら「これが写真だ」と言うだろうし、ロックを褒めるなら「これがロックだ」などと言うのだ。だがこれはいささか奇妙なことであって、別にこれがハヤシライスかカレーライスか見分けがつかなくて「これがカレーだ」と言っているわけではない。歌唱とエレクトリックギターを主としたエイトビートの大衆音楽であると認定したから「これがロックだ」と言っているわけではないわけで、辞書的定義にあてはまる諸特性を満たしているかという問題ではない。それは比較すらできない。あなたは前の男と比較するまでもなく、新しい彼との関係を「これが恋だ」と確信するだろう。ここで行なわれているのは明らかに価値判断的な言表なのだが、しかしむしろこれが価値判断・個人的趣味的な判断であることを拒絶しようとする響きが込められていると考えるべきだろう。「わたしはこれを良いと思った」ではなく、もう、わたしが何を思おうが関係なく、「これが映画だ」としか言いようがないから言っているのである。ここでは一般名詞が言語構造の網を脱して、あたかも真なるもの・善きもの・美しきものの高みへと押し上げられているようだ。モダニズム芸術が「これが芸術だ」という判断を要請するのはこういった事情によるものであり、そこでは芸術が固有名詞と化す、つまり諸特徴によって定義されるのではなく「これ」と指差すことでしか定義しえないものとなる。まったくの個人的な判断が天上のイデアに通じるような回路が、存在しなければならない。